松本サリン事件現場視察 [名珍写真]
1994年6月27日午後10時40分ごろ、
長野県松本氏深志1丁目に住む会社員の河野義行さんは、
妻の澄子さんと一緒に自宅1階南側の居間でテレビを観ていた。
これは、河野宅の玄関である。
突然、澄子さんが、気分が悪いと言い出した。
そのとき、自宅の北側の犬小屋辺りで物音がした。
外に出ると、2匹の愛犬が倒れて全身を痙攣させていた。
警察に知らせようと居間に戻ると、
澄子さんがあお向けに倒れ、全身を痙攣させていた。
すぐに119番通報した。
午後11時14分ごろ、救急隊員が河野宅に到着した時には、
義行さんと長女も苦しんでいて、救急車は家族3人を収容、病院へ搬送した。
午後11時48分、「開智ハイツ」の住人から、変な臭いがするという119番通報が入った。
これは、開智ハイツである。
翌28日午前0時5分、「松本レックスハイツ」の住人から、
友人が気分が悪いと言っているという通報があり、
近くの民家からも、気分が悪い、救急車を頼む、という電話が入った。
これは、松本レックスハイツである。
この集団ガス中毒事件は、死者7人、重軽傷者144人を出す大惨事となった。
被害の範囲は半径70メートルに及んだが、
死亡した人の全てが2階以上の住人だった。
7月3日午前9時、捜査本部は、記者会見で、
「サリンと推定される物質を検出した」と発表した。
ここで、マスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名づけた。
サリンは、第一通報者の河野宅の周辺6箇所から検出された。
7月7日ごろから、河野さんを犯扱いする新聞記事、テレビ報道が始まった。
結局、河野さんは翌1995年3月20日の地下鉄サリン事件が発生するまで、
疑惑の人物とされた。
オウム真理教は、土地問題の訴訟で、
7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で、敗訴の可能性が高かった。
そこで、製造したサリンの効力テストを兼ねて、
教祖の松本智津夫が裁判官や反対住民への報復を計画し、
信者に命じて実行したとされている。
事件当日の6月27日午後4時ごろ、
実行部隊が山梨県上九一色村の第7サティアンから
2台の車に分乗して出発した。GO!!
岡谷市のドライブインで休憩していた時、
既に日が暮れかかっていた。
このままいけば、到着は夜になり、攻撃目標にしていた裁判所に人がいなくなると判断した新実が、
村井に住宅地図を示しながら、
「裁判所から400メートル離れたところに裁判官宿舎があるので
そこに変更しましょう」
と相談した結果、村井は承諾した。
午後10時前ごろ、噴霧車とワゴン車は裁判官宿舎から190メートル離れたスーパーの駐車場に入り、
2台の車に偽造ナンバープレートを取り付けた。
これは、そのスーパーである。
そこへサリンを噴霧する場所を探していた村井が戻り、
中川らに指示して、裁判官宿舎まで37メートル、
河野宅の敷地に隣接する駐車場に2台の車を停め、
午後10時40分ごろから約10分間、
およそ12リットルのサリンを大型送風機で噴射した。
これは、その河野宅の敷地に隣接する駐車場である。
>実行部隊が山梨県上九一色村の第7サティアンから
ここのあとに、過去の上九一色のblogへの直リンを張るといいと思うよ!
by nimo (2006-12-10 01:09)
やったよ☆
by usk (2006-12-17 01:45)
グッジョ!
by nimo (2006-12-19 14:27)